神田 順
4年前に、本欄でウクライナの戦争について思うことを書いた。いまだに停戦が見えない。日本からの地理的な距離が遠いことが、具体的に想像してはみても、自分ごとにはなっていない。日々の生活は変わりなく続いている。プーチンの狙いについても、文化もからめて想像してみたことにしかなっていない。その後、ガザとイスラエル間で戦闘が発生し、2年を超えている。
それが今年に入って、トランプが、軍事的力により、ベネズエラの大統領を捕らえて、拘留ということが発生し、世界を驚かせた。そしてさらに、その2か月後には、イスラエルと共同して、イランの最高指導者を殺戮し、イラン国内の広域に空爆を続けている。ロシアの戦争は許されないと発信しても、アメリカの戦争は許されないと発信しても、どれだけの効果があるか、悲しい現実である。
かつての2003年のイラク戦争も、当時のブッシュ大統領がイラクを空爆、フセイン大統領を捕らえて死刑にした。どう考えても、その戦争は間違っていたと歴史的に明らかにされているのに、また同様な構図が繰り返している。ベネズエラやイランの国の体制を変えるために、国として戦争という手段を実践している。いつでもこういうことが、アメリカ軍はできるのだということを、見せつけているのである。
「万物の黎明」(クレーバー・ウェングロウ著、酒井隆史訳)によると、国家の3原理は、暴力の統制、情報の統制、個人のカリスマ性としている。国家の存在自体が戦争を存在させることになっているとの主張のようである。そして、1万年くらいを視野において人類を眺め、自由と平等の狩猟採集社会から、富の余剰を生む農耕社会、それが都市を生み、さらに近代国家へと一方向的に進化しているという人類史に疑問を呈し、国を形成しない自由平等社会が、つい19世紀くらいまで、何度も生まれては消えて行ったことを明かにして、近代国家だけが人類の行く着く社会ではないと主張している。
2000年くらいの人類の歩みを眺めるときに、国家が外に向かって暴力をふるうことは、どこの地域でも繰り返し悲劇を生んできた。それを踏まえて第1次世界大戦の後の国際連盟、第2次世界大戦の後の国際連合をつくったのは、知恵の果実であったはずなのに、軍事大国のロシアもアメリカも狭い視野での自国正義を暴力につなげているのだ。
小さな地域で自給的持続可能社会が営まれれば、国家は必要なく、戦争も生まれない。人類史を見つめ直すことから、そのような選択がありうるとすれば、人類は、もう少し長く存続しうるのかもしれない。現実には、資本が生産を加速させ、競争が国家間のレベルに展開し、大きな無駄と格差の拡大に目をつむって、種の絶滅に向っているのかもしれない。
戦争の映像は、崩落した建築である。それは建築のための研究が全否定される世界である。建築を愛することが戦争の否定につながらないものであろうか。すべての国が、戦争放棄を憲法に謳えば戦争はなくなるのではないか。国際連合の理念を今一度呼び起こすときなのではないだろうか。人間の知恵をどのように巡らせれば、滅亡に向かわずにすむのであろうか。
現実世界では、戦争が拡大している。起きている戦争を止めることができるのは人間である。国家の主権ということであれば、国民の政治へかかわりであり、国民の声でしかない。政治は言葉を歪めるので注意しなくてはいけない。価値観の異なるときの対話の難しさだ。アメリカ国内の声は、過半が戦争反対であると報じられているが、まだ足りないということだ。わが国でも、より戦争に近い状況におかれた時に、戦争反対の声が政治に届くのであろうか、気になるところである。自然災害への備えとして事前復興が言われているが、戦争でないときに、戦争になったらどう止めるかを考えておくべきであろう。戦争をしないという強い意思を持ち続けるためには、まだまだ十分に知恵を鍛えていないのではないかと思う。
「万物の黎明」の結論の章で、ユヴァルノ・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を引用して「想像上の秩序から逃れる方法はない」ということから、「生物種としてのわたしたちは本当に閉塞しており、みずからこしらえた制度の檻から本当に逃げられないと判断しているようだ」という。「『言論の自由』も『幸福追求の自由』も、社会的自由としては、ほとんど問題にならない」と注に記している。確かに、トランプやプーチンをいくら弾劾しても、金持ちが豪邸で派手なパーティをやっても、何も変わらない。今の国家制度が当たり前な社会となると、国家間の戦争も無くならないということなのであろう。
もう少し、歴史に学び、戦争の無い社会、誰もが自由に暮らせる世界を作る努力が必要だ。わが国にも、そのような努力が足りない。
構造設計はさまざまな知見を工学的に解釈して、建築物の構造安全性を達成する技である。高い専門性を有する。建築物の地震被害や強風被害を考えるときに、地震動や強風そのものも含め、さらには、地震や強風を受けたときの構造体としての挙動を評価するための研究が地震工学や風工学として蓄積されている。日本建築学会による建築物荷重指針にはそれらの成果が反映され、ほぼ10年ごとに改訂がなされている。その都度、改定の趣旨が書かれているが、あらためて、地震工学や風工学の成果がどのように設計荷重評価に反映してきたかについて、パネリストに話題提供いただき、それら研究成果が耐震性、耐風性の性能向上がどのように展開しているか、さらには、今後どのような研究が求められるか、議論したい。パネリストのお二人は、それぞれ、長年、地震工学分野、風工学分野で研究されているのみならず、その分野の全体像についても通じておられ、建築物荷重指針の改訂にあたっても中心的役割を果たして来られた。
建築基準法における耐震性や耐風性の位置づけとしては、大正関東地震(1923年)や室戸台風(1934年)が基礎になっているが、1998年改正で、性能規定化という位置づけのもと、施行令・告示が整備されている。一方で、構造安全性に対する社会的要求に対しては、十分に応えられているといえるのだろうか。建築物の高層化の影響や地盤特性の反映といった意味で詳細なモデル化が可能になって来たものの、それが構造安全性の質にどれだけ貢献できているか丁寧な議論がされていると言えるだろうか。構造設計者は、地震工学や風工学のどのような研究成果を自らの知見としてどのように取り込むことで、より質の高い構造設計が可能となると考えているだろうか。研究による知見の蓄積と実務における専門性との関係を、議論するフォーラムを企画しました。大勢のご参加をお待ちします。 (神田順)
